「死ぬということは、身体から離れて生きるということである──」
この言葉は、この記事でも紹介している「生きがいの創造」の著者の、飯田先生の言葉だ。
僕は臨死体験をしたことはないけれど、あるとき、”魂の世界”の旅をしたことがある。
※そのときの様子を書きなぐった記事はこちら↓

その体験は、肉体を超えたところにある“自分の本質”を思い出させてくれた──
自分の本質とは、肉体でも思考でもない。
自分とは、「魂」であることを、理屈ぬきで深いところで思い出した。
そしてあとになって、臨死体験者たちの本を読んだとき、彼らが語っている世界と、僕が“あのとき”に体験した世界が、あまりにも似ていることがわかった。
この記事では、自分が体験した魂の世界と、彼らの臨死体験の中で語られている世界を、照らし合わせてここに綴る。
臨死体験者の話と魂の世界の共通点



僕はこれまでに、臨死体験をした人の話を何度か本で読んだことがある。
僕が特に好きなのは、飯田史彦氏の『生きがいの創造』と、アニータ・ムアジャーニの『喜びから人生を生きる』
どちらも素晴らしい本なので、臨死体験や、死後の世界に興味がある人には、ぜひ読んでほしい。
※下にリンクをはっておきます↓
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興味深いのは、彼らが紹介する臨死体験の内容と、僕が体験した“魂の世界”の感覚が、驚くほど似ているということだ。
僕は臨死体験をしたわけではないけれど、あのとき魂の世界で感じたことには、「人は死んだら、みんなこの世界に戻ってくる」という、確かな感覚があった。
つまり、僕の言う“魂の世界”とは、臨死体験者が語る世界と同じものであり、ある意味で“死後の世界”と呼ばれている場所のことでもある。
魂の視点からすれば、生まれることも、死ぬこともないのだから、“死後の世界”という言葉自体、おかしな表現なのかもしれない。
けれどここでは、混乱を避けるためにあえて、“死後の世界”という表現をしようと思う。
「生きがいの創造」で紹介されている臨死体験の話
- トランスパーソナルな状態では自由に意思疎通ができる。故に嘘も言い訳もない
- 死ぬということは身体からは離れて生きるということである
- コミュニケーションの取り方は思いが通じ合うことで行われる。つまりテレパシーのようなもの
- 人生を終え、肉体的な制限を終えたあとで意識体になると、いがみ合っていた相手とも許しあい理解しあう
- たとえ死んでもつながっている
『喜びから人生を生きる』で紹介されている臨死体験の話
- アニータは理解した。自分は死ぬんだと。そして体の機能が止まっても人は死なないということを
- 体を離れた上の方から、ベットで横になっている自分の体を見ている
- 周りの状況も細部にまで理解していて、他の人の感情までありありと理解していた
- 思考の状態ではなく、純粋な意識として存在していた
- 私たちはもともとスピリチュアルな存在であり、それ以外のものいんはなりえない
- 亡くなった父や、親友の存在にも気づき、ずっと愛で見守ってくれてい存在たちにも気づいた
これらはそれぞれの本の一部分を紹介したもの。
これだけを見ても同じようなことを言っていることがわかる。
次に、僕が魂の世界で感じたことと、臨死体験者の言っていることの共通点もいくつか紹介する。
臨死体験と魂の世界、共通していること
- 肉体を離れても「意識体」として存在していること
- 故にウソも言い訳もなく、瞬時に思いが伝わること
- それぞれが分離していない、つながった存在であること
- 人の本質は、愛そのものであり、肉体をこえたスピリチュアルな存在であること
僕が魂の世界で体験したこと・気づいたこと
まさに僕が体験した魂の世界もこんな感じだった。
※そのときの様子は、当時の僕がありのまま書きなぐった記事としてこちらに残してある↓



意識は普段とは比べものにならないくらいはっきり冴えている。
自分の身体がいまどういう状態なのかも理解しているし、まわりの状況や、人の会話の内容、それどころか、その人のそのときの感情までありありと理解している状態。
自分の思いは瞬時に相手に伝わってしまうので、故にウソも言い訳もない。だからこそ、その世界には低俗な考えをもつような魂は存在することができない。だってそんな考えもすぐに伝わってしまうから。
だから、その世界には高貴な魂しか入ることは許されず、だからこそ僕は当時それを「神の世界」という表現をした。
魂とはいったいなに?



魂は愛そのもの、光の存在だ。
けっして死ぬことのない永遠の存在だ。
すべての存在とつながっている。
言い方を変えると、すべてが自分であるので、すべてのことが理屈抜きにわかる。自分がそこに意識を向けるだけで明確な答えがわかるのだ。
この世界は一つの現れであり、本質は魂の世界にある。
魂視点からみた人生の意味
この人生は、“人間としての一つの視点”でしかなかった。
自分の本質は、愛そのものである、魂なんだ──
そんな感覚を、理屈じゃなく“体験”として思い出した。
いま自分だと思っているこの身体も、思考も、自我も、すべて、“この世界を体験するため”の道具にすぎない。
自分の本質とは、なんの関係もない。
これまで自分だと思っていたものの正体
これまで自分だと思っていたこの思考や自我というのは、ただの記憶の積み重ねであり、これまで見たり、聞いたり、教えられてきたりしたものの総称でしかなく、あなたの本質ではない。
状況によって変化するものはすべて幻でしかない。
本質は変化することもなく、ずっとそこにあるもの。永遠なるもの。それがあなたの本質だ。
魂はほんとはぜんぶ知っている。あなたがなにものなのかも。いまは忘れてしまっているだけ。
魂は完ぺきな存在
魂は完ぺきな存在であり、なにも失ってなどいない。
ただ、この世界を人間として体験するためにはすべてを忘れる必要がある。
じゃないと、人間としてこの世界を体験できないからね。
”苦しみ、悲しみ、怒り、嫉妬、不安、恐怖、絶望”。
人間視点でみるとこんな感情はだれも感じたくないと思う。
でも、これらは人間じゃないと味わえない感情なんだ。
魂視点でみるとすべてはかけがえのない体験
魂には分離の感覚がない。すべてが瞬時に伝わってしまうから。
こういった感情は、自分がほかの存在と分離しているという視点にいないと味わえうことができない。
つまり、魂視点からみると一見ネガティブに思える、”苦しみ、悲しみ、怒り、嫉妬、不安、恐怖、絶望”とかいった感情も、魂には、体験したくてしかたなかったかけがえのないものだ。
あなたのその絶望すら、ほんとはぜんぶあなたの魂が体験したかったとしたら…?
あなたが問題だと感じる状況にいるとき、魂視点でものごとをみてみたら…?
すべての存在が、魂の旅である、スピリチュアルジャーニーをしていると知ったら…?
でもほんとは、あなたの魂は最初からどこにも旅にでてもいないし、ずっと神の国でもある「魂の世界」にいる。いま、この瞬間も。あなたの魂は、人間を演じながらも同時に神の国を離れたことなど片時もない。
──じゃあ、あなたは今、なにを体験したくて、ここにいるんだろう?
そう問いかけてみると人生をまた違った視点でみれるかもしれない。
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